今一生氏越しに見る、おさわり募金に対する傍感

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自己決定権で蓋をして自己責任と見捨てる風潮

「性産業に従事する人の自己決定権」についてですが、自らの強い意志で性産業に従事する人もいるでしょうし、その方を否定する気は全くありません。

ただ、従事している人たち全体を見たとき、どこまでが自由意思なのか、それを見極めるのは難しいと言えるでしょう。

全てを一辺倒に「自分で選んだ道だから」で蓋をしてよいのかは甚だ疑問を感じます。

http://www.nhk.or.jp/ohayou/marugoto/2013/12/1217.html

自己決定権というのは、保証されて然るべき権利です。

ただ、第三者の置かれる立場に対して、他者が「自己決定権によるもの」と決めつけることはいかがなのでしょうか。

例えば、複数枚のカードから、好きな絵札を自己決定により選択します。

この時、10枚のカードから絵札を選ぶ人、2枚のカードから絵札を選ぶ人の間で、その自己決定権に差はないといえるのでしょうか。

この差や、その人が身を置く背景を考慮せずに、「自己決定権に口出し無用」と思考停止していいのでしょうか。

そもそも、自己決定権という言葉は、当事者の口から述べるものであり、第三者がそれを決めつけるために用いるものではないでしょう。

心理学にダブルバインドという言葉があります。

これは、AとBのどちらの選択をしても、罰を与えられる状況を指します。

例えば、親が子に「怒らないから正直に話なさい」と詰め寄ります。

この場合、正直に話しても、内容によっては怒られます。

正直に話さなければ、「言えないような事をしたのか」とか「嘘をついたのか」と責められます。

このダブルバインドを応用した、「応用的ダブルバインド」が世間でも馴染み深いものとなっています。エリクソンが提唱した、「治療的ダブルバインド」もそのひとつです。

治療的ダブルバインドとは、治療対象者に治療に繋がる行動を促すときに、いずれの選択肢を選んでも、同じ結果になるように誘導する方法です。

応用的ダブルバインドとは、例えば、「Aのコーヒーと、Bのコーヒー、どちらにする?」と聞かれた場合、AかBのどちらかを選んでも、いずれにせよ「コーヒー」という選択を強いられます。

この場合、存在するはずの「その他」という選択肢が意図的に伏せられているのです。

正しい選択肢の呈示は「Aのコーヒーと、Bのコーヒーと、もしくはそれ以外のどれか、または要らない?どうする?」とすべきなのです。

これらの例のように、自己決定権というものは、時として呈示する側によってコントロールされることがあると言えるのです。

2枚のカードと10枚のカードの差は大きいことがおわかりでしょう。

選べるカードの数が少なければ、より多くのカードを探すという選択肢があってもいいのです。

今回、おさわり募金に関して、自己決定権を声高に叫ぶ人の中に、弁護士の方が混じっていることに驚きました。

スタッフの女性には「24時間、裸で男性に胸を触らせたい」という自己決定はあったのでしょうか。

彼女たちは、自らの意思で胸を触らせるスタッフに名乗り出たのかも知れませんが、このイベントを企画立案したのは彼女たちなのでしょうか。

話は変わりますが、刑法では、準強姦罪という犯罪があります。

準強姦罪は、心神喪失、酩酊状態、抗拒不能な状態の女性を姦淫した場合に、例えそれが同意の上であっても成立します。このとき、問われる罪の重さは、強姦罪と同等です。

準強姦とは、暴行や脅迫を用いず、心神喪失や抗拒不能な状態に乗じて姦淫に及ぶことをいい、刑法178条2項に規定され、強姦罪と同罪として処罰されます。
睡眠や飲酒酩酊のみならず、精神障害や知的障害などに乗じて姦淫を行うことも準強姦罪に該当します(福岡高裁 昭和41年8月31日判決)。

強姦・準強姦その他の性犯罪 – 男女トラブル.com http://www.danjo-trouble.com/?page_id=149

Q ーお酒を勧められかなり酩酊して布団に倒れて寝ていたところ、この中の2人に交互に挿入されました。

ちなみに私は精神障害者2級ですが、相手も皆障害者ということは知っていたのでしょうが実際どの程度までとは知らなかったとは思います。
初めの咄嗟の抵抗はしたのですが、幼少期のフラッシュバックやトラウマとも重なり、その後は抵抗しなく酩酊していたことも乗じて暫く無気力で相手を受け入れていまったのですがその後はそれどころか、早くその状況を終わらせたかったので、おかしいですが私からも相手に少し奉仕的行為ををしてしまいました。

A ー準強姦罪に該当し得ます。

抵抗できなかったこと、相手の要求に応じて奉仕行為をしてしまったこと、事件後すぐには警察へ行けなかったこと、いずれも強姦被害者の心理として非常によくあることです。
相談内容を拝見する限り、あなたが責められるべき状況ではないと思います。
責められるべきなのは加害者達です。

弁護士ドットコム -[強姦・レイプ]酩酊状態の精神障害者への準強姦について https://www.bengo4.com/c_1009/c_1198/b_384941/

準強姦罪を引き合いに出すのは飛躍しすぎていることは重々承知です。

ただ、「自己決定」や「自己責任」として思考停止する危うさを訴えたいがため、極論とも言える例を敢えて挙げました。

なぜなら、「弁護士も自己決定権だから問題ないといっているんだ」と、それを読んだ人の間に間違って伝播して「自己決定」や「自己責任」や「自業自得」といった言葉が一人歩きした時のことを危惧すると、慎重にならざるを得ないからです。

「自己決定権」を突き詰めると、たとえ誰かが不慮の事故に見舞われた場合であっても、どこかにその人の瑕疵を探し出し、無理矢理な形で自己責任にしたてあげ「自己責任だから胸を痛める必要は無い」となりかねないのです。

これは、公正世界仮説というものです。

世界は本質的に公平であり,そのため良い人は賞を得て,悪い人は罰せられるという,広く普及しているが誤った信念.
この信念の結果の1つに,不幸に見舞われる人は,不幸を受けるに値すると見なすものがある.交通事故の被害者は不注意な運転をしていた,押し込み強盗の被害者は十分な予防策をとっていなかった,レイプされた女性は刺激的に振る舞って加害者を誘ったはずだなど.また,被害者が自分を責めることもしばしばある.この現象は通常,統制幻想の結果として解釈される.

公正世界仮説 | カラダの知識 ココロの知識 http://medinet.jugem.jp/?eid=206

痴漢されても被害者が責められ、婦女暴行されても被害者が責められる。

世の中にあるそういった声は、理不尽極まりないのです。

今回のおさわり募金の議論の中で、性産業で働く女性を「自己決定権の尊重」で十把一絡げにしようと考える弁護士の方がいらっしゃる事が浮き彫りになったわけです。

弁護士の方は人権意識が高く、犯罪被害者と成り得る人を未然に救いたいと考える人が多いという印象を抱いていましたが、今後は、そういったステレオタイプな見方を改めなければならないのかも知れませんね。

http://news.livedoor.com/article/detail/10964822/

お解りのように、弁護士というだけで、十把一絡げに聖人君子と考えるのも盲目的だということですね。

ハロー効果やミルグラムの法則(権威への服従)によって、ある立場の人が発する言葉は、疑うことなく真に受けやすくなるものですが、気を付けたいものです。

もちろん、弁護士の立場から自己決定権をふりかざす同業者に対して、異議を唱える方もいらっしゃるわけです。

おさわり募金で身体を触らせるスタッフの事を「自己決定権の尊重」で蓋をする一部の弁護士の方をやたら持ち上げる今氏ですが、ご自身も「自己決定権」を盾に、困窮している人を見過ごすおつもりでしょうか。

世の中には、法律だけで解決できないことは山ほどあると感じます。

そして、法律には反しないグレーゾーンに苦しめられている人は大勢いると感じます。

例えば、自己決定権によってパチンコにハマり、ギャンブル依存症に陥った人に対して、どういった方法で救済するのでしょうか。

私は法律に詳しくないのですが、射幸心を煽ってお金を巻き上げるパチンコ店を、弁護士の立場から法的に訴えることは難しいのだと思います。

三点方式という、まるで脱法ハーブのような言い逃れで肯定されている、実質的な賭博を、警察は問題視することなく、検挙もできませんので、刑法から訴えることも難しいです。

従って、この場合では救済方法として、自助会、ピアサポート、医療機関、カウンセリングなどの選択肢があると思います。

法律で介入できないグレーゾーンの問題によって、苦しみ困窮している方を見捨てるとき、「自己決定権」という言葉は、一部の弁護士の方にとっては実に便利なものですよね。

できれば、一部の弁護士の方には、徒に自己決定権という言葉を安易に振りかざさない様に願いたいと、私は思うのです。

もう一度重ねていいます。

普段、社会貢献や、弱者救済や、貧困救済を声高に叫ぶ今氏ですが、どの立場から叫んでいるのかが甚だ疑問です。

おさわり募金問題の当事者とは誰なのか

当事者とは。

まず、胸を触らせる女性スタッフでしょう。

彼女たちがいなければ、おさわり募金は成立しませんので、それは間違いないでしょう。

では、反対署名に賛同する人は完全なる部外者なのでしょうか。

今回の件をきっかけに、私はTwitterの関連性の高いコメントを読みあさりました。

大手WEBメディアの関連記事のコメント欄や、一部からはあまり評判がよろしくないガールズちゃんねる」のコメントなども読みました。

ざっと意見に目を通すと、おさわり募金に反対する方は、比較的女性が多いと感じます。

まぁ、中には罵詈雑言の様なコメントもあったのですが、感情的になるのもある意味仕方がないといえるでしょう。

なぜなら、この問題を女性当事者としての視点から考えているからだと思うのです。

とはいえ、罵詈雑言と批判は違うので、あまりにも乱暴な語調は自重を願いたいとも思いますけどね。

中には「イベントの善し悪しは判断出来ないが、とにかく辛くて苦しい」といった声がいくつもありました。これは、女性スタッフの置かれる状況に、自分自身を投影し、「女性そのものの尊厳を踏みにじられている」と感じたことから、嫌悪感を抱くのでしょう。

「人は人、自分は自分」と言われれば身も蓋もないんですが、「同じ立場としてなにかしら思う所がある」とか「同じ○○として一言いいたい」という状況は、多くの人が直面することだと思います。

一方で、「おっぱい募金の何が駄目なんだ」という声には「ヒステリックなフェミが何か叫んでる」とか「触る方も触らせる方も、WinWinなんだし、好き同士で勝手にやってればいいじゃん」といった、まるで他人事のような意見が多いように感じます。

肯定派の大半の意見は漫然としていて、切迫感、痛切さ、切実さなど、突き動かされるような情動は特に見受けられません。どちらかというと、他人事に対する嘲笑のニュアンスが強いと感じました。

それでも機微を読み取ろうとした時に伺えたのは、「表現規制に対する懸念の感情」でしょうか。また、フェミニズムや、リベラリストへの嫌悪感や「からかい」の印象を感じる意見もありました。

そうなんです。「当事者のために存続すべき」と訴える人の中に、リベラル批判やフェミニズム批判の声の大きい人が多いのです。

これは、リベラル批判やフェミニズム批判のために、「当事者」とされる人が道具として利用されているようにも感じるのです。

おさわり募金の反対派は、他人事じゃないと感じているわけです。むしろ、自他の境界が曖昧になるほど投影して苦しんでいるのです。

激しい感情が渦巻いていて、悲痛な思いをどうにか言語化させようと苦心している声も多く見受けられました。

一方、肯定派の中には「当事者が~」と声高に叫びますが、大半がフェミニズム批判にかこつけたり、フェミニストを揶揄してからかうことに終始している人も見受けられます。

それは、今氏が「トホホ」とか「トンデモ」という言葉を用いて揶揄する様子をみても、どこか外野による高みの見物のようで、余裕のある印象を受けるのと同じです。

心底から、義憤により感情を滾らせて抗議している肯定派は、ごく少数に感じます。

さて、反対派と肯定派では、どちらの方がより当事者に近いと言えるのでしょうか。

私は、なんらかの当事者ではなく、イベントに参加したわけでもありません。

そして、私ごときが、女性の味方だとか、弱者の味方だとか、烏滸がましくて易々と発言できません。

従って、私も部外者なのでしょう。なので、タイトルの様に「傍感」というスタンスを取っています。

この記事も、一個人の主観を勝手に述べているだけに過ぎません。

「世の中のため」だとか「社会貢献」だとか、そういった大袈裟な大義を抱いているわけでは更々ありません。

ただ、一歩引いて傍観しているからこそ見える部分もあると思うんです。

今氏を含め、署名運動を批判する方々は、なぜ、署名賛同派が、おさわり募金に反対しているのかを深く考えようとしないのでしょうか。

そこを深く洞察せずに、おさわり募金の必要性ばかりを説くのは偏向しているように思えるのです。

世の中に募金活動が必要なのは大前提なんですが、それが、おさわり募金である必要性について熟考したいのです。チャリティーイベントに胸を触らせるコーナーを設ける必要が本当にあるのかを問いたいのです。

断っておきますが、私は、別にフェミニストではないです。

そしてフェミニストの味方を自ら宣言することもないです。

私は、単に疑問を感じる部分に一個人として意見しているに過ぎません。

ここからは、それを踏まえてお読みください。

まず、フェミニズムを語るうえで欠かせないのがミソジニーです。

ミソジニーとは、女性軽視や女性蔑視、女性嫌悪や女性憎悪です。

これまでの、男性主体で築かれた文化や社会には、そういったミソジニーが根付いていました。

かつては、女性には参政権が与えられていなかったんです。

女性は、弁護士になることが認められませんでした。

女性は、集会の自由を奪われ、屋外で三人以上集まる時は、警察に届け出る必要がありました。

女性から、夫に対して離婚訴訟を起こすことは認められていませんでした。

女性は結婚して嫁ぐと、専業主婦となり、子を産んで家事育児に専念すべきと抑圧されていました。

家父長制により、父親が支配権をもち、妻は従属することを強いられていました。

これらは、今となっては信じられないことでしょうが、女性軽視や女性蔑視といったミソジニーが起因し、男性優位の社会によって女性が抑圧されてきたことを、歴史が証明していることに他なりません。

「男尊女卑なんて存在しない」という思い込みは、かつて女性解放運動家が社会運動に心血を注いだ結果、女性に当然与えられるべき権利が獲得され、ある程度は女性の権利が守られる現在に、平温に生きることができるからこそ生じるのです。

その地盤を築いたのは、紛れもなく運動家の弛まぬ努力の賜なのです。

ただ、形式上は、女性の権利がある程度認められる世の中となりましたが、潜在化しただけで、ミソジニーは未だ根深く残っているように伺えます。

私は、フェミニストではありませんが、カウンセラーという立場からみて、ミソジニーは看過できないと常々感じています。

それは、クライエント様(相談者さま)の訴えの中で、世の中にミソジニー的構造がなければ苦しまずに済んだであろうケースが後を絶たないからです。

その構造を紐解くと、男性による女性への一方的な搾取や加害性よるものだと気付くのです。

ご相談で多いのは、女性が男性の都合のいいように利用され、消費される最中にいるか、用済みとなり捨てられた、というケースです。

ここで注意が必要なのは、「捨てられたのなら、縁が切れているし問題ない」ということにはなりません。心に大きな傷を負って、長らく自身を責め続け苦しむ人がいるのです。

逆に、男性が女性に都合のいいように利用されて、用済みとなると捨てられるケース、というのも存在するでしょう。そういった、悪女にたぶらかされるケースのご相談も、カウンセリングでは真摯にお伺いいたします。

このように、女性に男性がたぶらかされた場合は、「悪女にたぶらかされた気の毒な男性」となるわけですが、男性に女性がたぶらかされたり、虐げられたり、搾取されたりといったケースの場合、その男性は世間的に悪漢とは限らない場合が多いのです。

つまり、女性から男性への加害性は「悪女による加害性」であるのに対して

男性から女性への加害性は「(世間的に)ごく普通の男性による加害性」であることが多いのです。

それは、世間が認識できないのと同時に、男性自身も加害性の自覚が薄い場合が多いのです。

従って、これは世の中の男女の力関係を如実に表していると捉える事ができると思います。

カウンセラーという立場上、数々の相談を受けてきた事例を振り返った時、男性による支配に苦しみながら逃げ場がなく救いを求める女性は多いと実感します。

苦しみながらも逃げ道が見つけられない女性は、ご自身を責める傾向が見受けられます。

私はそのとき、「沸いて当然の怒り」や「自身の置かれる状況や立場の理不尽さ」に気付けるようにアドバイスさせていただいております。

抑圧による耐えがたい苦痛は、声に出して怒りと共に発露させていいのです。

同じように、おさわり募金に対して抱く怒りや悲痛な声は、押し込める事無く発露させていいのです。

「男性により女性の身体が性的に消費されることを、募金という名目がつく事で、途端に美化され正当化される風潮」

それを許せないと感じることは、そんなに批難されることでしょうか。

これは、「触られる女性が望んで触られているから問題ない」という話ではありません。

女性であれば、胸や臀部や女性器など、男性であれば臀部や男性器など、水着で隠されている部分は、気安く触っていい場所ではないはずです。

そこを、気安く、しかも堂々と呵責なく性的に触って消費することができるイベントが、募金という名目を付加したことで、市民権を得ようとすることを問題視しているのです。

ましてや、過去に男性による加害性を身近に感じた女性からすれば、それはとても恐ろしいことで、トラウマを喚起させるのに十分であるといえます。

おさわり募金に対して苦痛を覚えた人は、声だけでなく、何らかのアクションを伴うのもいいと思います。

それが署名活動であり、一つのアクションといえるのです。

「賛同の声を集める」という行動は、法治国家の理念に即しており、民主的かつ冷静なアクションです。

署名活動の結果がどうであれ、思いを行動にするだけで報われる人や勇気づけられる人もいるはずです。

おさわり募金肯定派は、おさわり募金が正しいと信じるなら、勝利を信じてどっしりと構え、行く末を見守ればいいのだと思います。

なにも、野次を飛ばしたり、水を差したり、茶々を入れたり、揶揄する必要はないでしょう。

おさわり募金肯定派は、おさわり募金反対派を漫然と批判する前に、様々な背景を慮る姿勢を求めた上で、然るべき方法で批判すべきです。

それに、署名活動は世間の意識調査と捉えることもできると思います。

署名が多く集まると言う事は、それは世の中の意識を反映した一つの答えとなります。

従って、おさわり募金肯定派も、おさわり募金の賛同者の署名を集めて対抗すれば済む話でしょう。

まぁ、おさわり募金肯定派に、そこまでの気概があればの話ですが、どうなんでしょう。

同じ土俵に立たずに野次を飛ばすだけの人は、もっとも当事者とはかけ離れた場所に位置すると思います。

それは、ブログでいち早く騒動を引っかき回した張本人である今氏が代表例です。

「論破しておいたw」と、今氏の自尊心を満たすために「トホホな存在」として槍玉に挙げられた女性達は気の毒でしかたがありません。

私は、今氏と同じく場外にいる立場として、こうして場外乱闘を仕掛けたわけですが、別にヒール(悪役レスラー)と見なされて構いません。どうぞ、遠慮無くパイプ椅子でぶん殴ってくださいませ。

私は今氏と違って、Twitterで誰一人ブロックしていませんし、これからも予定はないです。

screenshot.2

さて、「当事者とは誰なのか」という話ですが、私を含め、今氏が当事者ではないのは明らかです。全然関係のない外野です。

それなのに、今氏はやたらと当事者の代弁者面をしたがるのです。

そのくせ、スタンスをコロコロと変えるので掴み所が無いのです。

僕の立場は、中止or擁護ではなく、その間にある「改善の余地があるから賛否の両者が話し合ってほしい」だ。
わからないことは判断を保留し、調べればわかることは少しでも知りたい。

■「話せばわかる」を信じずに民主制は成り立つか? | 今一生のブログ http://con-isshow.blogspot.de/2015/12/blog-oppaibokin-minshushugi.html [archive]

今氏は、おさわり募金関連の記事をいくつか書いていて、最後の記事ではこう仰っています。

こちらの記事では中立を宣言していますが、明らかに最初の記事と論調が変わっています。

当初、今氏は、おさわり募金反対派を「トホホ」で「トンデモ」呼ばわりし、「完全論破しておいたw」といい、明らかにイベント肯定側でした。これって、中立な立場の発する言葉ですか?なにがしたいのかわかりません。

今氏を観察していると、一貫性がなく、フラフラと宙に浮いていて軸が定まっていないように見えるのです。

なんというか、この件以外の今氏を見ていても、周囲の反応やオーディエンスの声、情勢や形勢を見て、スタンスをコロコロ変えている様に見えるのです。

一つ実例を挙げると、今氏は「ひとり親を救え!プロジェクト」にもブログで言及しているんですが、プロジェクトに賛同したり、取り下げるといってみたり、スタンスがコロコロと変わっています。

screenshot.1

(TogetterにまとめられたTweetですが、なぜか元のTweetは削除されているのでスクショを貼ります。)

ご覧の通り、今氏は当初、常見氏側に立っていました。

それを受けて、常見氏も、ご自身のブログ記事で今氏に対する感謝のコメントを掲載しています。下記の引用にあるように、きっと背中を押されたと感じたことでしょう。

幸いにも乙武氏、今一生氏のツイートに癒やされた(冷静になるために、いったんメンションを読むのをやめていたが、寝る前にみた)。

というわけで、私は「ひとり親家庭」は全力で応援する。

しかし、「ひとり親を救え!プロジェクト」は応援しないことにした。尊敬する友人もいっぱい参加しているのにな。

ひとり親家庭は応援するが、「ひとり親を救え!プロジェクト」を応援しないことにした <常見陽平> | BLOGOS http://blogos.com/article/141037/

しかしその後、ネット上で常見氏への批判的意見が多かった事を受けてなのか、今氏は態度を一変させて、急に駒崎氏寄りの記事を書きました。

その記事では、常見氏が反対しているプロジェクトに、今氏は賛同の意思を表明しました。

この主催者は、「ひとり親を救え!プロジェクト」だ。

この署名サイトにある説明を、ざっくり言えば、次の通りだ。

日本のひとり親家庭の多くは、母子家庭(母子家庭123.8万世帯、父子家庭22.3万世帯)。
母子家庭の就労率は約81%だが、非正規雇用が47%で、平均年間就労収入は181万円。
その結果、日本のひとり親家庭の子どもの貧困率は54.6%と、先進国で最悪。

しかし、ひとり親家庭に国から支給される児童扶養手当は、1人目の子どもには最高月額42,000円、2人目には月額5000円、さらに3人目以降は3,000円。
「食べ盛りの子どもに、1日100円で何を食べさせればいいのでしょう?」
署名サイトは、そう問いかけている。

僕は、この署名に賛同し、SNSで拡散した。

■「ひとり親」を貧困から救うために署名する意味 | 今一生のブログ http://con-isshow.blogspot.jp/2015/10/blog-post_24.html [archive]

常見氏からすれば、今氏から急に掌を返されたようで唖然としたでしょう。

その後、今氏は駒崎氏に公開質問状という形のブログ記事を書きました。

(今氏がよくやる、この公開質問状というのも、体裁を保つことを目的として、尚且つ形勢を見極めるための手段なのかとさえ疑ってしまいます…)

それがきっかけなのかは知りませんが、今氏は駒崎氏からTwitterでブロックされます

まぁ、駒崎氏からすれば、外から引っかき回す外野の今氏は目障りでしょうし、それは賢明な判断でしょうね。

すると、今氏は再び駒崎氏に掌返しです。

賛同の署名をした僕は、なんとも苦い思いをかみしめるのだ。

■「ひとり親を救え!プロジェクト」に賛同すると困る存在 | 今一生のブログ http://con-isshow.blogspot.jp/2015/11/blog-post.html

今氏は、ネットで話題になっている事には取り敢えずいっちょかみしているようですが、ある程度考えが固まるまでは、安易にコメントせずに静観していればいいのにって思います。

まぁ、ブログってアクセス数の事を考えれば、鮮度が命なのでしょう。

これらの記事をなぜか「社会貢献」のカテゴリーに入れている今氏にとって、アクセス数や話題性よりも重要視することってあるんじゃないですかね。

今氏のコロコロ変わる態度は、好意的に解釈すれば、柔軟性があって臨機応変だといえるのかも知れません。

ですが、問題の渦中にいる方は、あっちこっちへとスタンスを変える今氏をどう思うでしょうかね。本当に、当事者を困らせるために引っかき回すことが目的なのかとさえ思えてきます。

今氏が、自覚がなくそれをやっているのなら、周囲は今氏を警戒したほうがいいと思うんです。

おさわり募金肯定派の雄として名乗を挙げた今氏ですが、徐々にトーンダウンしましたよね。

こんなにコロコロとスタンスを変える今氏の意見を支持していて大丈夫ですか?

だって、いきなり掌を返されるかも知れませんよ?

さて、話を戻します。

スタンスをコロコロと変える今氏ですが、意固地になって決して譲らない一面もあるのです。

今氏は「当事者」という言葉がお好きなようで、ゲシュタルト崩壊しそうなほど、やたらめたらと、執拗にご自身のブログで多用されていらっしゃいますね。(あとは、高学歴な人への私怨じみた批判も執拗ですね)

そんな今氏ですが、彼の見逃せないTweetをまとめた、Togetterまとめがあります。

http://togetter.com/li/912334

上記のまとめをご覧になるとお解りのように、今氏は発達障害の当事者から直接向けられた声を蔑ろにしています。

特徴は傾向で、傾向は全員に該当するわけではありません。発達障害では理解しにくいかもしれません。

杓子定規のように、曖昧さに含まれるニュアンスを理解しにくいのは、発達障害の特徴の一つではないのですか?

(今氏のブログ記事に対して、宇樹氏による指摘を受けた今氏のTweet)

この今氏の発言に対して、発達障害当事者である宇樹氏はとうぜん批判しましたが、今氏は見当違いで上から目線の謝罪紛いともいえる言葉を吐き捨てて、その後は音沙汰なしです。

ちなみに、今氏は、批判的な意見を寄せる人をすぐにブロックするというTweetが多く検索にヒットします。(私もブロックされました)

「Twitter検索で、「今一生 ブロック」で検索した結果

ブロックするのは個人の自由です。

ただ、この件に関しては、本当に人間性を疑いますし、口汚い表現で申し訳ないのですが、反吐が出る思いです。

どうやら、今氏にとっての弱者や当事者とは、自身に好意的な人に限定されるようです。

その、軽薄で欺瞞に満ちた二枚舌に対して心底腹立たしいと感じます。

(同じように当事者の言葉を蔑ろにする方で、ジャーナリストの伊藤隼也氏という方がいらっしゃいますが、その件はまたいつか記事にしたいと思います。)

http://togetter.com/li/923256

繰り返しますが、私は別に、弱者の味方でも、女性の味方でもありません。

単に私は、ごくごく一部の、自身に関わりの深い人たちの味方でしかありません。

私が恨む怨敵もとくにいません。目の前の相談者の声に向き合うだけです。

そして私は、思想家でも、活動家でも、運動家でもありません。

一介のカウンセラーでしかありませんので、大それた事は言えません。

ただ、一つ言えることがあります。

クライエント様が、弱者であろうと強者であろうと、女性であろうと男性であろうとも関係なく、私はカウンセラーとして相談者の味方につきます。

今氏は、当事者の声を大事にすべきというなら、社会から抑圧され苦しむ反対派の女性の声も大事にすべきことは自明でしょう。その方達は、本当になんの関係もない人たちですか。

果たして、今氏が救済すべきと訴える弱者とは誰なのでしょうか。

それは、今氏の基準で選別した弱者のみで、そこからあぶれた人は弱者ではないのでしょうか。

今氏や、伊藤隼也氏もそうですけど、当事者の声であっても、批判的であればブロックして蓋をすれば、それで解決なんでしょうか。

ここで再び、さっきの引用を再び載せますね。

 AV女優たちのおっぱいを揉むと、エイズ予防活動資金になるという「おっぱい募金」について、中止を求めるネット署名がChange.orgに上がった。
そのトンデモぶりについては、「おっぱい募金の中止を求める人たちがトホホな件」というブログで完全論破しておいたw

当事者の声を大事にしない「意識高い系」の人は、自分の胸に手を当てて、よぉ~く揉んでみよう。
欲望こそが生きづらい社会を変えると、ピンとくるはずだ。

■おっぱい募金で触らせた・触った当事者の言葉 | 今一生のブログ http://con-isshow.blogspot.jp/2015/12/blog-post_12.html

当事者の声を大事にしない「偽善者」は、ご自身の胸に手を当てて、よぉ~く過去を振り返り態度を改めてみてはいかがでしょうかね。
今氏は、ご自身の胸をどれくらい揉まれましたか?
いつまで変わらずにピンボケしているおつもりでしょうか。

これで4回目ですが、またいいます。

普段、社会貢献や、弱者救済や、貧困救済を声高に叫ぶ今氏ですが、どの立場から叫んでいるのかが甚だ疑問です。

次ページ【見え透いた欲望を善行に仕立て上げるための詭弁】


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