表現の自由は盾か刃か

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この記事の所要時間: 421

フィクションは「if(もしも)のシミュレーション」

フィクションは「if(もしも)」のシミュレーションであり、思考実験であるともいえます。
火垂るの墓やはだしのゲンも史実と異なる部分があってフィクションです。
これらは史実をベースに「if(もしも)」を描いた作品です。

フィクションによるシミュレーションによって「もしも~だったら」どう感じるのか、どうおもうのかということを知ることができます。
「if(もしも)」の世界を見て「悲しい気持ちになった」「腹立たしい気持ちになった」のなら、現実は「if(もしも)」を辿ることなく遠ざけたいとおもうでしょう。
私は、火垂るの墓やはだしのゲンに描かれた「もしもの世界」が、現実世界に到来しないことを心から望みます。

「はだしのゲンは自虐史観を助長するプロパガンダ漫画なので、図書館に置くな」
果たしてそうでしょうか?規制を訴えるよりも、伝えるべきははだしのゲンがフィクションであることだおもいます。

「はだしのゲンはフィクションだけど、これを読んであなたはどう考える?」と考えるきっかけを得られることのほうが私は重要だとおもいます。

少し前に話題となったのぶみ氏の「あたしおかあさんだから」という詩に批判的な声が集まりました。
あの詩に不快感を表明することは意義があることだとおもいますし、共感する人がいても構わないとおもいます。

「あたしおかあさんだから」も「if(もしも)」の物語です。
「もし仮に、この世界がおかあさんに自己犠牲を強いるのが当然の世界だったなら」というシミュレーションを体験した結果、息苦しさや強い不快感を抱いた場合は「現実世界をそういう世界にしたくない」とおもうはずです。

「悲惨な世界が描かれた物語」は世の中にたくさん存在します。
それらは「もし、現実世界がこうなったら恐ろしいですね」という教訓として捉えることもできるわけです。
「あたしおかあさんだから」にそういった狙いがあったのかどうかは定かではありませんが、対抗する目的で作られた「あたしおかあさんだけど」というアンチテーゼには「私はそのifに反発する」という強い意志を感じます。
肯定的に捉えれば「あたしおかあさんだから」の存在によって「あたしおかあさんだけど」というアンチテーゼを創出できたのです。

私個人は「あたしおかあさんだから」の歌詞には共感しません。
なによりも、子どもに聞かせることには反対です。
子どもに聞かせた場合「母親になったおかげで(子である自分がいるせいで)母は自己犠牲を強いられている」と罪悪感を抱かせて抑圧することにならないかと懸念します。

フィクションであっても現実に悪影響を及ぼすことが明確な場合は論理的に問題点を指摘すべきだとおもいます。

以上の理由から我が子には聞かせたくありませんが、私自身にとっては「私の望まない社会」を提示してくれたという意義は感じます。
それが、表現の持つ可能性のひとつだと私は考えます。

https://mainichi.jp/articles/20180217/k00/00m/040/099000c

ふともも写真展の問題点とは

つい先日、ふともも写真展の中止やコロコロコミックの発売中止なども表現の問題として話題になりました。
ふともも写真展の中止は、私は正しいとおもいます。

ふともも写真展の問題点は、制服を着た女性モデルは女子児童を想起させる上に、それをことさら強調した写真展を不特定多数が出入りするデパートで開催しようとしたことだとおもいます。
「いかがわしいとおもう奴こそがいかがわしい」というのは詭弁です。

全体的な構図として、明らかに肌色が占める面積が多く露出度の高さを示しています。
私は肌の露出度の高い写真そのものを否定しません。妊婦ヌードやメモリアルヌードを写真に残したいとおもう女性の権利も尊重したいです。

ただ、デパートは不特定多数が往来する場です。この場合はパブリックです。見たくないものを見ない権利を優先すべきだとおもいます。
主催者は他者の見たくないものを見ない権利を守りながら、場所を選んで開催することも可能だったはずです。

感想の表明と問題の指摘は別

私は、今回のコロコロの販売中止は無難な判断だとおもいます。
同時に、これは難しい問題だとおもいます。

確かにあれは読者層である小学生にうける内容だとおもいます。
しかし、モンゴルの人からすれば自国の英雄が冒涜されたのですから抗議したくなるという心情も十分に理解できます。

私の好きな作品で、ジョジョの奇妙な冒険というコミック及びアニメがあります。
その作品のOVAで、DIOという悪役が読んでいた書物にコーランの一節が書かれていたシーンが問題になりました。
アニメスタッフが内容をよく調べずに引用したことを謝罪し当該箇所は差し替えになりました。
原作では書物は白紙だったので問題はなかったのですが、OVAに関しては抗議を受けるのも無理はないとおもいます。

ほかには「美味しんぼ」という漫画内で被災地への風評を招きかねない表現があり、福島県双葉町から厳重な抗議が送られ、首相も「被災地で原発事故による健康被害は確認されていない」と表明しました。

また、同作中にて乳幼児にはちみつ入りのパン粥を与えるシーンが掲載され、これも問題となりました。
乳幼児に蜂蜜を与えると甚大な健康被害を招くことが医学的に証明されていますので問題視されるのは当然です。

これは作者と編集者の認識不足を責めざるを得ません。
「蜂蜜を乳幼児に与えると深刻な健康被害が予測されるので、実際には禁忌です」と大きく注釈を入れるべきだったとおもいます。

なにせ、これは人命に関わることですから「これはフィクションである」ということを強調し「現実に悪影響をもたらす表現」がないように慎重さが求められます。

そして、読者にも「フィクションは虚構なので真に受けない」というリテラシーが求められます。

今回のコロコロの件は他国から抗議されたケースですが、海外の作品に日本人が反発を示したケースもあります。

例えば、洋画で「オーストラリア」という作品があります。
作中で日本軍がアボリジニを虐殺するシーンに対し「史実と違う」「プロパガンダ映画だ」と批判する声が寄せられました。
自身の先祖を冒涜されたように感じる人もいるでしょうし、批判したくなる心情も十分に理解できます。

しかし、あれは映画であって〝もしも〟を描いたフィクションです。
あの場合、日本軍を悪役として登場させたのはストーリーを盛り上げる演出以外の他意はないとおもいます。
もし仮に、アボリジニを虐殺するシーンで急に宇宙人やゾンビや巨大鮫が悪役として登場したり、実は主人公の夢オチで「悪い日本兵なんておらんかったんや!」という展開であったなら、「オーストラリア」の物語的には興冷めだった可能性もあります(逆にその荒唐無稽さが面白くなる可能性もありますけどね)。

例えば、織田信長が悪役として描かれるifも、英雄として描かれるifも、タイムスリップした現代人として描かれるifも、女性として描かれるifも、それぞれにそれぞれの楽しみ方があると私はおもいます。

ただしかし、個人には作品の感想を自由に表明する権利があります。
なので批判も自由です。

ここで重要なのが、

・感想を述べること
・個人の好みを表明すること
・問題点を指摘すること

それぞれはまったく別だということです。

「この映画はおもしろかった(つまらなかった)」というのは感想を述べることであり、参考にできるレビューとなり得ます。

「私はなすびを好まない」というのは個人の好みを表明することであり、ひとつの情報ですので、受け手も「そうなんだね。あの人はなすびが好きではないんだね」と情報を受け取るだけです。ただ、なすびが大好きな人の前でことさらに叫ばないほうが無難ではあります。

「私はきゅうりが嫌いだ!お前達もきゅうりを嫌え!さもなくば~」この場合は、好き嫌いの表明にとどまりません。同調を強いる行為「同調圧力」です。これは誰かから反発を受けても仕方がないです。まぁ、逆もまた然りですよね。「これを楽しめないの?バカじゃないの?感じ悪い!」も同調を強いてます。なにせ、好みなんて人それぞれですよ。

「私は○○さんの事が嫌いなんだよね」のあとに「だから、あなたも一緒に嫌ってくれないかな。一緒に嫌ってくれないとあなたのことも嫌いになる」と続いた場合、これが学校や職場で、いじめに発展するのは想像に容易いですね。

「この映画を見た場合、途中のシーンに含まれる激しい点滅よって光過敏性発作を起こすことが懸念されます。従って、激しい点滅があるシーンの明度を下げていただきたく要望します」というのは、問題点を指摘しています。具体的になにがどう問題なのかを指摘して要望を伝えています。

これなら、指摘を受ける側も問題点を汲み取りやすいです。

このTweetにあるスクリーンショットを例に具体的に記します。

  1. 問題点:禁止ではないことを逆手に取って故意に乗車する男性が増えることで本来の機能が破綻する
  2. 指摘:現状を看過していることは、鉄道会社の管轄する車内での迷惑行為を問題視していないと捉えられかねない
  3. 要望:駅係員を搭乗口と車内への配置を希望する

これが、問題点の指摘と要望です。


何かを伝えたいとき、それが単なる感想なのか、好みの表明なのか、問題点の指摘なのかを意識するのは重要だとおもいます。

(ちなみに、私はきゅうりが好きですけどなすびは苦手です。)

表現の自由の問題とは、とかく難しい

表現の自由といえば私がすぐに想起するのは仏誌のシャルリーエブドです。
東日本大震災が起こったとき、シャルリーエブド紙は風刺画で指が変形し腕と足が3本はえた力士を描いたり、サッカー元日本代表の川島選手の腕を4本にコラージュした写真を掲載し、日本大使館は厳重な抗議を送りました。
その風刺画は被災者にとってなんの喚起にもならず呪いにしかならないので、私も憤りましたし日本大使館の抗議に同意です。

シャルリーエブド紙はほかに、イタリア中部地震で負傷した被災者を「トマトソースのペンネ」と表現し、建物の下敷きなった被災者を「ラザニア」と表現しました。
これに対しイタリア政府から批判を受けました。

ほかには実在するシリア難民の溺死幼児を嘲笑的に風刺しました。
黒い法律家協会の代表弁護士は、これをヘイトクライムとして国際刑事裁判所に上申することを検討している模様です。

また、過去にはイスラム教の預言者ムハンマドを揶揄する風刺画を掲載したことが発端となり、覆面武装集団によってシャルリーエブド社が襲撃を受けるといった殺傷テロ事件にまで発展しました。

私はテロによる暴力行為は決して許せないですし、肯定の余地はまったくありません。
ただ、表現者側は伝えたいことがあるなら揶揄や侮辱せずとももうすこし上手く喚起する表現が可能ではないかとおもいます。

私は、亡くなった難民幼児を嘲笑する風刺はもってのほかだとおもいます。
その内容とは「キリスト教徒は水の上を歩ける。イスラム教徒の子供は沈む」といったもので、奥歯がきしみ腸が煮えくりかえるおもいです。これも肯定の余地はまったくありません。

ただ、これは別にシャルリーエブド紙自体を善だ悪だと断罪したいのではありません。
単にシャルリーエブド誌の「表現が下手」「表現が稚拙」「表現が邪悪」に感じるという私個人の感想の表明に過ぎません。
決して「表現するな」「表現の自由を剥奪しろ」というのではなく、飽くまで「その表現を私は悪手に感じる」「私は好まない」「私は許せない」という一個人の感想でしかないのです。

自分でもすごく奥歯に物が挟まる感じなのは自覚しています。
それだけ「表現の自由」の問題は私にとってあまりにも難しい問題で、納得のいく答えを未だ見つけ出せていないこともあります。

ローマ法王は「表現の自由には限度がある」と声明を発表しています。
私もそれに同意です。
ただ「限度」というものの判断が私には難しいです。

具体例としてローマ法王は「あなたがもし、私の母親に対して呪われた言葉を言ったとしたら、あなたにはパンチが飛んでくるかもしれない」と語っています。
ローマ法王のコメントは示唆に富み「自身の大切な存在への直接的な誹謗中傷が、表現の自由で守られることはない」「表現によって傷つけられた場合、聖職者であっても激しく憤慨するが、それは正当な感情である」ということをわかりやすく語っているとおもいます。

個人への直接的な誹謗中傷でなければ問題がないかというと、これまでのケースを振り返ればそうとも限りません。
もっと広範囲の属性への抽象的な表現や暗喩が対象となったケースもあります。
ローマ法王は「表現の限度」を心得ているのでしょうが、私はまだまだ未熟であり、どこにどんな問題が隠れているかわからず手探り状態です。

「人を傷つけない」「人の権利を侵害しない」という漠然としたことならわかります。
しかし皆さんは絶対に「人を傷つけない」という自信はあるでしょうか。
私にはそんな自信はないです。私は悪意がなくとも自分の言葉で人を傷つけてしまうこともあるのだろうとおもいます。

しかし、私も誰かを傷つけたくはないですし、誰かの権利を侵害したくはないです。
なので、これはもう試行錯誤を続けつつ誰かから指摘される度に「どのような問題があったのか」を、個別の案件ごとに真摯に熟考するしかないと考えています。

旧来のレイシズムが保守主義的な人々によってなされていたのに対して、現代のレイシズム、なかでも嫌悪的レイシズムの視点が明らかにしたのは、平等主義者がレイシズムを実践するという点である。つまり、政治的にはリベラルで偏見がないと信じている平等主義の人々が持つ偏見を問題視し、彼ら・彼女らの否定的感情がどのように微細に、非直接的に表明されるのか、さらにどのように合理化されるのかを解明しようとした。

マイクロアグレッションは、一見、悪気がなく、重要視されないが、その影響は劇的である(心の健康、ヘルスケアや教育、雇用の不平等)。

マイクロアグレッション概念の射程(PDFファイル)

例えば「障害者は弱い存在なので、保護しなければならない」と弱者の権利保護のために主張した場合、これは一見すると正しいです。

しかし、受け止める側によっては「障害者は弱い存在であり、誰かに守られなければならない存在である。(自分は弱い存在であり続けねばならず、社会に弱い態度を見せ続けないと認められない)」というスティグマを背負わせる可能性をはらんでいます。
逆に「障害者は決して弱い存在ではなく、困難を抱えている分、健常者より強い存在である」というのも「弱い障害者は認められないのなら、自身を弱いと感じる私も許されない」と気を病む可能性もあります。

この場合「障害とは、単に状態を指す。社会に存在する障壁により弱い立場を強いられていれば、その責任は社会側にある。よって社会は個人のエンパワメントを阻害してはならない。」とすべきだとおもいます。
障害者ということで、他者から弱いとか強いとか勝手な主観を押しつけられる謂われはありません。

「あなたは障害者〝なのに〟頑張っている」ではなく「あなたは頑張っている」だけでいいのです。
個は個です。腫れ物でも壊れ物でもなければ、私の名前は障害者ではありません。
必用としているのは個人の事情を汲むことや合理的な配慮です。好意的であっても美化や脚色は不要ですし、色眼鏡や無自覚な見下しも不要です。

私は目に見えやすい他者の差別を大きな声で批判することで、目に見えにくい自身の差別を矮小化しないように努めたいです。
そして私も間違います。それを開き直りませんが萎縮もしません。自由に発言します。他者の表現の自由も尊重します。
しかし、私は指摘を真摯に受け止め反省から学ぶ姿勢に努めます。従って、周囲からの指摘も私自身を助くと考えています。

失敗から学ぶ姿勢を応援したい

「表現の自由に基づき、萎縮せず自由に表現します(してください)」
「それで問題があった場合は、批判を真摯に受け止めます(受け止めてください)」
「表現の自由の限度を、反省を重ねながら見定められるように努めます(努めてください)」
「批判を真摯に受け止め反省している場合は過度に責めないでください(過度に責めません)」

現状で私の表現の自由に対して示せるスタンスはこのようになります。

写真展を中止したマルイも、コロコロの発売を中止した小学館も確かに今回は問題があったといえますが、それぞれに経済的な損失もありながら中止を判断したことは評価したいとおもいます。
経済的な損失は自業自得だと切り捨てるのは簡単ですが、私はそれぞれの反省や努力を汲み取り支持したいです。批判と怨嗟は別物です。

・失敗しても反省すれば許される社会。
・もし仮に許せずとも別々の道を歩める社会。
・反省から学び成長する社会。

そういった社会だと大勢にとって息苦しくないとおもうんです。

・「一度の失敗=社会的な死」といった重圧で雁字搦めのハラキリ文化からは脱却する社会。
・誰かの再起を祝福できる社会。
・もし嫌いであっても相手の退路を断たない社会。
・決別することになっても互いの道を歩みつつ共存できる社会。

そんな、多様で寛容な社会になれるといいなって私はおもいます。

私はこれからも
表現に対して批判したり問題点を指摘します。

しかし
私は表現者が問題点を精査する姿勢を支持し、問題点を見極め誤りを認める態度を尊敬します。
私は済んだことはさらっと水に流します。
私は仮に相手と決裂しても距離を保って共生することを試み、深追いをしません。

表現の自由は暴力に屈することなかれ

私は正直にいって、シャルリーエブド紙の表現の内容に関しては下の下だとおもいます。
控えめにいってゴミだとすらおもいます。

しかし、暴力に屈しない、臆さない、怯まない、萎縮しない。そんなシャルリーエブド紙の表現の精神は崇高だとおもいます。

もし仮に、シャルリーエブド紙が暴力に屈してしまえば「表現を封じるには暴力だ」という方程式を強化してしまいます。シャルリーエブドの姿勢は「屈しない我々の精神に対して、行使される暴力は実に無力である」というメッセージを世界に示し、多くの賛同を得ました。私も、そんなシャルリーエブド紙の表現者としての姿勢を称賛したいです。

また、フランス大使館の「シャルリーエブド紙の風刺画はフランスの立場と一致しない(あるいは、フランスを代表するものではない)」という発言に留め、当事者同士の話し合いを促す姿勢も称賛したいです。
これがもし「誠に遺憾であり、今回の件を非常に重く受け止め、政府が責任を持って表現や言論を規制する方向で検討します」と政府がしゃしゃり出たなら、それを私は公権力の圧力、公権力の濫用だと判断します。

表現や言論が公権力によって支配、コントロールされるとどうなるかは想像に容易いです。
表現規制や言論統制がいかに恐ろしいかは公権力による検閲がまかり通っている国を見れば明らかです。

表現は人を傷つける凶器にもなり得ますが、不正と戦う武器にもなり、人を守る盾にもなります。
公権力を批判したいとき、公権力の横暴から人を守るとき、公権力から表現を封じられていたなら、その戦いは困難になります。

このTweetの2ヶ月後にまるで反対の意見に見えるコメントを述べています。

この「本当にそうおもう」というのはデマや誤情報の流布を憂う医師のコメントに対しての同意であり、「危うい情報」とありますように表現や創作(フィクション)に対する発言ではなくWELQ騒動などの情報メディアに対する発言です。

これも飽くまで、言論統制を促すものではなく「誤った情報やデマで誰かが不利益を被らないために、根拠のある公式見解を発表し事実誤認を覆す必要がある」「国民の混乱を防ぐため政府には正確な情報を発信する義務がある」という趣旨であり、それまでの文脈から繋がっています。

フィクションは創作ですので事実と異なる内容が許されます。しかし情報やデータは事実に基づき正確であることが求められますので、これは矛盾していません。

表現に望むのは洗練と配慮、そして覚悟

私は今後もシャルリーエブド紙が誰かを侮辱する風刺画を掲載する度に「またシャルリーエブドが紙をゴミに変えた」と憤るでしょう。

実在する人物の死をメディアがコンテンツとして消費することは断じて許しません。絶対にです。

しかし、シャルリーエブドの言い分を聞けば、一連の風刺画にもなんらかの示唆や喚起があるのかもしれません。

シャルリーエブド紙はイスラム教に限定して風刺しているわけではなく、キリスト教も風刺の対象にしています。

敢えて肯定的に捉えた場合、彼らの皮肉には「信仰する宗教の違いによって扱いに差があってはならない」「紛争が難民を増やし、子どもでも容赦なく不幸を招く。世界よ目を背けるな」という示唆を含んでいる可能性も否定できません(これは拡大解釈かもしれませんが、解釈の幅広さも表現が持つ可能性です)

亡くなったシリア難民の子どもに心を痛める日本人は少なくはないでしょう。
しかし、日本は難民受け入れに消極的です。これまで受け入れたシリア難民はたったの6人であり、国際的にかなり下位です。
その一方で、日本政府からの難民支援寄付金額は世界2位です。
これは「お金を払うから難民の受け入れを断らせてください」という風にも受け取れます。
私は日本の鎖国精神が未だ根強いと感じます。

我が国の一員として難民を受け入れ、互いに協力しあうことが望ましいと考えます。
一方的に援助するのではなく、日本国民と同じ立場として相互に支え合うことが理想だとおもいます。
多額の援助金は今後受け入れる難民や以前から国内に住む外国人も含めた、我々全員の公共の福祉に投じてほしいと願います。

このように、シャルリーエブドの風刺画は問題について深く考える契機となり得ます。
それでも私はあの風刺画に神経を逆撫でられますし、やはり上手い表現だとは言い難いです。

私はこれからも語気を荒げて批判もするでしょうが、それは決して「表現をやめろ」「表現を剥奪しろ」ということではありません。
「サーカズムではなく、エスプリの効いたアイロニーを用いる表現へ洗練されますように」という期待です。

私は、時には回りくどい表現が必用だと考えています。
例えば「片親」という言葉を使うことを私は極力避けたいです。
私は母子家庭で育ちましたが、子どもの頃「え~、彼は片親で~」と誰かが私について話すときの「なんか気遣われてる」という独特の緊張感が苦手でした。飽くまで個人の感覚としてです。
私は極力、母子家庭をシングルマザーの家庭といいますが、世の中にはシングルファザーもいますので、最近ではどちらもシングルペアレントの家庭と呼ぶようにしています。

横文字を嫌う人がいたり相応しくない場もあるので、これもTPOを選びますが横文字というのは馴染みが薄い分、それまでに染みついた言葉のイメージを軽減して「フワッ」とさせることができるとおもいます。
「フワッ」とさせるということは誤魔化しているともいえますが、直接的で苦々しいことばをぶつけるより、糖衣錠のようにコーティングしたことばを使ったほうが和むことだってあるとおもうんです。

例えば、先ほどの一節だと
「サーカズムではなく、エスプリの効いたアイロニーを用いる表現へ洗練されますように」という表現と
「下劣な当てこすりではなく、機知に富む反語を用いた表現へ洗練されますように」だったなら、なんか後者のほうが説教臭くて刺々しくないですか?
(その前に「控えめにいってゴミ」とか身も蓋もなく酷評していますけどもね…)

しかしこれも、適宜使い分けですね。

時には回りくどい表現も必要な場合がある

おわりに

私があらゆる表現に求めるのは、約束された自由、可能性の追求、洗練、成長、内省、そしてなによりも覚悟です。


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